まとわりつくような、粘着質の空気が立ちこめる部屋。
 居心地が悪いのに、この部屋に来てしまうのは何となく。
 翔がけだるげにうつ伏せになっていると、その脇で男は火を付けた。
 手が空いていればいつでも吸うから、部屋には煙草の匂いが染み付いている。
 もちろん男にも。
 そして翔にも。
 制服のままこの部屋に来たことはない。学ランに匂いがつくと厄介だからだ。
(髪に染み付いてれば同じだけど)
 溜息混じりに心の中で呟くと、ごろりと寝返りをうった。
 横になって部屋の中を見渡す。
 ぼんやりと初めて会ったときのことを思い出した。

 放課後に予定が無いのはいい。友達でもなんでも誘えば誰か一人ぐらい暇な奴がいるから。
 けれど夜になると別だ。
 翔は公園のベンチに座りながら、そんなことを考えていた。
 ひとりになりたくなると公園に来るのはなぜだろう。
 温かい缶コーヒーで暖を取りながら考えていると、足音が聞こえた。
 前に一度、知らない男に声をかけられたことがあった。
 翔を家出少年と思ったのかなんなのか、一万円札を数枚握らせてどこかに連れていこうとした。
 その時は何とか逃げられたけど。
(またそういう奴だったらどうしよう)
 別段危機感も感じずにそう思っていると、スニーカーが目に入った。
 顔を上げるとそこには煙草をくわえた二十歳そこそこの男。
 何を言われるんだろうと身構えると、男は翔が予想もしなかった言葉を発した。

「火ぃ、ある?」
 一瞬止まった思考を、頭を振ることで再起動させて「ない」と答えると、男は翔の隣に座ってくわえていた煙草を捨てた。
「家出少年?」
 人生相談へと繋がりそうなその言葉に、多少むっとしながら首を振る。家出なんかしていない、と。
(けれど同じようなものなのかもしれない)
 その後会話は途絶えて、翔は居心地の悪さを感じながらもそこから動けずにいた。
「家くる?」
 翔がどう答えようが構わない、どうでもいい風な口調。
 今考えれば、ただ男は寒くなって帰りたくなっただけだったのかもしれない。
 帰るのに子供一人置いていく後ろめたさから出た社交的な言葉。
 翔はそれに頷いた。

 男は大学生だと言っていた。
 と思う確か。
 初めて家に上がった時に、そう言っていた記憶があるようなないような。
 けれど嘘かもしれない。
 翔が気まぐれに現れてみても、男は必ず部屋にいる。
 嘘か本当か、男の素性なんて興味もないからいいけれど。

 一月前に来た時と変わらないものの配置。
 生活に必要なものも不必要なものもこの部屋にはあるのに、生活感という必要が無くても存在してしまうそれがなぜかこの部屋にはない。
(この男はどうやって生きているのだろう)
 自分が生きていくのにどうでもいいことを真面目に考えるのは、翔の癖のひとつ。
 自分から逃避したいのだ。
 なぜ生きる、いつまで、どこて、どうやって。
 自分自身については、些細なことを考えるのも億劫で、すぐに逃げ出したくなる。
 だから手近な疑問を手に取って真面目に考える。できるだけ時間を引き延ばすように。
 引き延ばした先に、結局自分自身が待っていることなんか知らないふりをして。

「俺、帰る」
 だるい腰を支えながら起き上がって翔が服を着だすと、後ろで男が起き上がる気配を感じた。
 視線が自分の背中に向かっている。
 ぎし、とベッドの軋む音。
 近寄る気配、熱、匂い。
 今ここで肩を掴み引き寄せられたら、自分は、
(どうするだろう)
 震える指がボタンを滑る。煙草の紫煙が目の前を泳いだ。
 けれど伸びた男の手は、翔の脇を通って灰皿を掴む。
 途端に訪れる、落胆のような安堵のような感情。
 それを吐き出すように溜息をついた。

 男は見送りをしない。翔はそれを強請ったこともなければ、不満に思ったこともない。
 甘ったるい関係は嫌いなのだ。
 手を繋いで、抱き締め合って、別れを惜しむ。
 自分はそれを男としたいと思ったことは一度もなかった。
「俺、もう、ここには来ない」
 背中越しにそう言うと、男は「そう」とだけ答えた。
 引き留めもしなければ、理由を聞いたりもしなかった。
(引き留められたら居ついたかもしれない)
(理由を聞かれたら泣いたかもしれない)

 がちゃり、と重いドアを開けると、外は朝焼けに染まっていた。
 ブラインドに遮られて孤立した部屋。
 部屋を出て振り返って、今更ながら居心地が良かったのかもしれない、と思う。
 避難場所としては丁度良かったのかもしれない。
(あの男は、自分がいなくなってこれからどうやって生きていくのだろう)
 どうでもいいことを考えて、今考えなければならないことを先送りにする。
 なぜ生きる、いつまで、どこで、どうやって。
 だれと。
 どこまで。

 甘ったるい関係は嫌いだったけれど、望んでいないわけではなかったのかもしれない。
 傍にいて、二人だけで、ブラインドのおろされた孤立した世界で。
 それはそれで、よかったのかもしれない。

 もう遅いけれど。

(ああ、最後まで)
(名前、聞かなかった)

 聞かなかったのか聞けなかったのか思いつかなかったのか。
 よく考えると自分が男について知っているのはあの部屋だけだった。

 男が自分について知っていることは、何もなかった。

 この一年と少しで、制服も名字も父親も変わったというのに。

 どうでもいいことを思い出して、目を閉じる。
 風が吹いて、自分の髪から煙草の移り香がした。

END

『ゲット・アップ・エレジー』