階段を上りきった彩子は、錆びて開きにくくなった鉄製のドアを体で押しながら開けた。それを真弓は後ろから眺める。ドアが開いた瞬間風が吹き込んできて、茶色い彩子の髪を散した。
三月だというのに北風の強く吹き荒ぶ屋上に来ようだなんて考える人はいないらしい。けれど二人とも不思議と寒さを感じなかった。
「彩ちゃん」
躊躇いがちに放った声は風にさらわれる。けれども真弓の方を向いていた彩子は唇の動きで真弓が声を出したことを察して、手招きをした。
おずおずと近寄ってきた真弓の手首を掴んで、給水塔の側へ歩く。
「彩ちゃん」
風が給水塔に遮られたせいで、同じ声量でも今度は彩子に届いた。
「何」
「予行、始まっちゃったよ」
泣き出しそうな顔で縋るように、真弓は彩子のセーターの裾を握る。真面目というわけではないけれど、元々気が弱い真弓は気が気でないらしい。そんな真弓にいとおしさを感じながら、でも同じくらいの憎らしさも同時に抱えて彩子は真弓の手を自分の手で包んだ。それからもう片方の手で真弓の髪を撫でる。くせっ毛の黒髪は手のひらに触れると柔らかくくすぐったい。髪をいじられる感覚が心地よいのか真弓も大人しくなった。
けれど。
「大学、おめでとう」
不意に手を止めて彩子がはなった言葉に真弓は震えると、小さくごめん、と言ってまた泣き出しそうな表情に戻り俯いた。
(そんな反応が欲しいんじゃない)
言い訳もいらない。謝罪の言葉なんて以ての外だ。
真弓が大学に合格したと、聞いたのは今朝のことだった。直接真弓から聞いたわけではなく、クラスの話題としてあがっていたのを耳にした。その瞬間、彩子は目の前が真っ白になった。
「何で急に……何も言わないで」
(相談も何もなしに)
離れていくことが恐ろしいわけではない。多分。
なぜならもう真弓は自分の元から離れ始めているからだ。その証拠に、何も相談されることなく、報告されることもなく、彼女は先を決めていた。
ただ、それなら何故。
(そんな縋るような目、するの)
捨てないでと、嫌いにならないでと、自分が離れるのをこの上なく恐れている風に、真弓は彩子を見つめてくる。離れていっているのは真弓の方なのにそれには気付かず、あるいは気付かないふりをして、彩子に縋ってくる。
真弓はまた、ごめん、と呟いた。
包んだ指先の冷たさだけがやけにリアルで、風に乱される髪も、はためくスカートも現実感を喪失している。
遠くでかすかに聞こえる仰げば尊しに彩子は泣きたくなって俯いた。
春が来なければいいと思う。ずっとこのまま北風が吹いて雪が降れば、卒業なんてないのだから。
そんな子供じみた考えさえ浮かんで、馬鹿げたそれを消すように包んでいた真弓の手をぎゅっと握った。
END
『チキータ』
(触れた手以上に尊いものなんて仰いだって見つかるはずが)
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