きい、と軋むような音をたててノブが回され、片手にマグカップを二つ持った大森がはいってきた。紅は椅子から立つこともせずに近づいてくる男を見つめる。コトリと置かれたカップではコーヒーが湯気をたてている。手を伸ばさずに、紅はただ大森の白衣の襟元を見つめた。
「すっぱい匂いがするわ」
大森は少し考えるように首を軽く傾げてから、ああ、試験薬の匂いかな、と答えた。
「試験薬?」
「さっきまで実験をしていたんだ。一年の時にやらなかった? 細胞の観察」
「わたし化学選択でした」
見てみるかい? とまだ教卓に置かれたままの顕微鏡を視線で示される。紅は小さく頷いた。
赤と言うよりはピンクに染まった核と染色体が小さな円形の窓の中、不規則に並んでいる。何の細胞かと聞けば、タマネギだよ、と返された。実験の方法を簡単に説明される。解離と固定、染色。顕微鏡から目を離さないまま、紅は小さく呟いた。
「惣ちゃんの細胞になりたかった」
小さな声は静かな実験室に響いて、すぐに溶けた。ひとつ息をついて、紅は顕微鏡から離れた。
「ありがとうございました」
「いえいえ」
少しでも楽しんでもらえたならそれで十分だよ。
微笑みながらそう言われる。紅は何も答えなかった。
解離と固定、染色。生きたままの姿で留められた、今はもう生きていないもの。
そんなものにさえ憧れを抱く。
廊下から授業終了のチャイムが響いてくるのを耳にして、紅はドアに向かった。手をかけたところで背後から声をかけられる。
「いつでもおいで」
ここに来ても細胞にはなれないけれど、愚痴くらいなら吐けるよ。
紅は振り返り大きく目を見開いてから、スカートを翻して廊下へと逃げるように駆け出た。柔らかい声はコーヒーの湯気を思い出させた。
惣一の一部になってしまいたいと言った。
大森はそれを愚痴だと判断した。
悔しさと情けなさと自分の弱さへの憤りに、紅は唇を噛みしめた。
END
『ヘラルド』
(それは弱音ではないと誰に言い訳をすればいいのだろう。)
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