僕は疎らに空いた座席に一人座って延々と続く蒼を眺め乍ら手元の紙を弄ぶ。目的地には何事も無ければ翌朝到着する予定だ。
一人旅とも云える其れは、けれど片道だけの旅だろう。別れは済ませて来た。只一人以外は。列車に揺さ振られ乍ら思い出すのは三年前の春先。親友とも呼べる少年の家を訪ねた記憶だ。
静志郎の家に行ったのは、春一番が吹こうかと云う時だった。朝方は息が白く染まるけれど、太陽が昇ると外套が邪魔になる。其の様な日の授業の終わり、静志郎が突然僕を家に誘ったのだ。
「家に来てみないか?」
然う云えば一度も来た事が無いだろう、と静志郎に云われて、僕は嗚呼然うだった、と気付いた。其の日は特に用事も無かったので了承すると、静志郎は酷く嬉しそうな顔をして笑った。
静志郎の家へ向かう道々、僕等は此れからの進路に就いて話し合った。中等学校を卒業したら、如何するのか。学校で行動を共にして居たけれど、僕と静志郎は其の事に就いて避ける様に話題にはして来なかった。互いに何か遠慮をして居たのかも知れない。
けれど卒業迄間も無い時分、遂に無視出来無い処迄現実が迫って来て、僕はやっと話し合う気に成った。
「草太、僕は高等学校に行く」
静志郎の言葉には迷いや躊躇い等感じられ無かった。僕は黙って頷く。
「高等学校に行って、医科大学に行って、医者に成るんだ」
姉さんは体が弱いのだと前に静志郎に聞いた事が有る。だから自分が治して遣るのだ、と。
「草太は?」
問い掛けられて真っ直ぐ静志郎の顔を見る。深い黒の目玉は雀斑混じりの僕の顔を映して居た。
「僕は、工業学校に行くよ」
「然うか」
僕の家は余り裕福とは云え無かった。其れは今も変わら無い。家族を養う為、多くの賃金を手に入れる為、僕は技術が欲しかった。
静志郎と別れる事が寂しく無いと云ったら嘘に成る。行ける事なら僕も高等学校に行きたかった。けれど今迄育てて呉れた父母の事を考えると、とても其の様な事は口に出せ無かった。
其れからは又お互い黙って、僕は先を歩く静志郎の背中を見つめ乍ら後に続いた。成長期を迎えていない彼の後ろ姿は華奢だ。吹かれれば飛んでしまうかの様に細い体をしているけれど、目は凛とした光を湛えて居る。唇は紅を引いている様に鮮やかに赤い。其の体格と整った顔立ちから、彼が去年迄先輩達にどの様な目で見られて居たか、急に僕は思い出して眉を歪めた。
静志郎の家は質素だが造りの良さが伺える外観をして居た。僕は其の様な邸宅に入った事等無いから、軽く後込みをする。其れに気付いた静志郎は「気構えないで呉れよ」と小さく笑った。
部屋に通されると直ぐ、静志郎は奥の間へ入って仕舞った。手持ち無沙汰に成った僕は部屋を見回す。不必要な物が極端に少ない部屋の中で、静志郎と彼に良く似た女性の写真だけが特別に見えた。女性は多分静志郎の姉だろう。
正月に撮ったのだろう、大きな門松の脇に正装をした静志郎と着物姿の彼の姉が和やかな顔をして此方を見て居る。静志郎は今より少し背が低い。
もっと近くで見てみようかと足を踏み出した時、先程入って行った襖から静志郎が戻って来た。
「待たせて済まない」
「いや、」
其処で僕の口は言葉を発するのを辞めて仕舞った。待たされた事に腹を立てた訳では無い。只。
静志郎の姿に目が離せなく成って仕舞ったのだ。
静志郎は、先程迄の制服の上に艶やかな赤い着物を羽織って居た。梅の様な、桃色も混ざった赤だ。柄は、写真の女性が着て居る物と同じだった。
「姉さんの物なんだ」
僕の視線に気付いた静志郎は、袖を見て呟く。
「結核で、今千葉へ療養に行って居る。毎月、此方は海が綺麗だ、とか一言書かれた絵葉書が届くのだけれど」
片時も姉の事を忘れ無い様、彼女の着物を纏う事を思いついた、と。
「変だろうか?」
目を伏せ俯きがちに然う問われ、僕はもう一度静志郎を頭から爪先迄眺めた。
黒髪と、対照的な雪の様に白い肌、唇の赤にも似た布が滑る肩は薄く細く、袖口から出て居る指先は女の物と見紛う程で。
変等では無い、寧ろ。
「……草太?」
訝しげに、然して不安そうに声を掛けられて我に返る。
「変では無いと、思う」
姉さんを大切に思って居る証なのだろう?
語尾に行くにつれ段々と小さく成る声を頭の端で感じ乍ら、僕の頭は他の事で一杯に成った。
今、僕は、どの様な目で静志郎を見た?
丸で女を見る様な情欲を感じて僕は。
自分を、去年迄下卑た目で静志郎を見ていた先輩の様に感じて僕は。
吐き気を感じた。けれど。
同じ位の陶酔感も、共に感じて仕舞った。
其の後の静志郎との会話は上の空で、良く思い出せ無い。後日会話の記憶を辿ろうとすると、着物の赤ばかり思い出して仕舞ったのだ。
其れから暫く、僕は静志郎を避けた。此の様な感情を抱いた侭、静志郎の隣に居る等僕には無理だった。
避けられて居る事に、彼が気付いたか否かは判らない。
曖昧な侭僕等は卒業し、然うして疎遠に成った。
其の次の年の初夏、静志郎の姉が死んだと噂で聞いた。其れを知った時、僕は直ぐに静志郎に会いに行きたかった。けれど静志郎の名を聞いて瞬時に思い出したのは赤い着物を纏った彼の姿で、僕は踏み出そうとした足を元に戻した。
今思えば、怖かっただけなのだろう。自分が腹の底で考えて居る事が静志郎に知られやしないか、と。
後込みして迷って居る間に今度は静志郎が出陣する事を知った。
彼の姉が死んで一月経つか経た無いかの時分だった。
彼に就いての知らせを聞いて僕は、嗚呼戦争なのだ、と唐突に理解した。然して、静志郎はもう戻っては来ないだろう、と頭の何処かで思った。
其の予感通り、静志郎は二度と帰って来なかった。南太平洋海戦と云う戦いで死んだらしい。骨さえ、帰って来なかった。
姉が療養所から眺めて居た海に還った静志郎は、何を思って死んだのだろう。
僕の気持ちに気付いて居たのだろうか。
カサリ、と紙が乾いた音を立てて現実に戻る。窓の向こうは未だ海が見える。静志郎の還って行った海。
手元の紙に視線を落とす。赤い色をした其れには、僕の名前と配属される部隊名、部隊に出頭する日時が黒の文字で書かれて居る。
此れが届いた時。涙を流し乍ら母さんが此れを差し出した時。
嗚呼あの日静志郎が羽織って居た着物の色にそっくりだ、と。
然う思った僕は変なのだろうか。
切ない様な醜い様な、其れでも甘く、大切にしたくて忘れられ無かった此の感情は、果たして恋と名付けても善かったのか。
只穏やかに其処に有る海を眺めて、僕は泣きそうに成った。
了
『赤』
(血潮のような鮮やかさは瞼の裏に焼き付いて)
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